» 2008 » 12月のブログ記事

 

 奴隷根性というものがある。これは支配階級から見た考え方で、「奴隷には所詮奴隷として生きていくだけの考え方しか出来ない」というものである。古代ギリシャやローマ、そしてイスラム世界、インドのカーストと、あらゆる地域で奴隷というものは歴史的に存在し、一部は現在でも残っている。南アフリカのアパルトヘイトなどもこの一種であった。

 奴隷身分の人間は長期的視野に欠けていることが多く、実際に奴隷階級が支配階級になると自分に都合のいい政策しかしなかったり、逆らう者や気に入らない者を大量粛清したり、大量の汚職をしてみたりととにかくロクなことにならない。一番いい例が南アフリカやシエラレオネである。歴史的には血塗られたエジプトのマムルーク朝がいい例であろう。

 これは、彼等が奴隷のモノの考え方から逸脱していないせいである。奴隷階級は、自分達が世界を作れるとは露ほども思っていない。今あるものから搾取することばかり考え、そこから先のビジョンなど見えていない。何故なら彼等には搾取する側とされる側、という社会構造しか見えてこなかったからである。自分が社会システムそのものを作るなんて考えは最初からないのである。

 さて、現代の日本を見てみよう。現代の日本人の多くは、いや99%と言っても過言ではない。日本人はそのほとんどが奴隷根性である。「苦労は買ってでもしろ」「働かざるもの食うべからず」「お上には逆らえない」等のキーワードを挙げれば皆さんピンと来るのではないだろうか。

 日本人は頭を使って楽することを罪とし、頭を使わないで苦労することを美徳とする民族なのである。何かと分相応という単語を使い、デカいことをしたがらない、気が小さく、冒険的な事を好まない。奴隷根性民族なのである。

 だがしかしこれはおかしい。日本という国は自然が豊かで、食い物には困らない環境であったはずだ。どちらかというとタイだとか南の島に近い生活環境だったはずである。彼等はどこか能天気である。全くセカセカしていない。事実、昔の文献を読むと昔の日本人は相当能天気である。滅茶苦茶適当で、大麻と酒ばかりやっていたようだ。今の日本人とは大違いである。

 では一体どこで日本人が狂ったのだろうか。私は徳川家康が作り上げた士農工商カーストシステムであると思う。豊臣秀吉だか松平誰彼だかが「農民は生かさぬよう、殺さぬように扱え」と言ったことで有名だが、彼は武士という支配階級を使って徹底的に下位カーストを苛め抜き、奴隷根性と奴隷の考え方を植えつけた。彼がどこからこのような支配階級の考え方を身に着けたのかは謎だが、結果として士族階級以外は奴隷根性へと変貌を遂げていく。

 だがしかし、幕末になって支配力が弱まると日本人が本来持っていた気質が復活し、幕府は安政の大獄などでこのような危険思想を取り締まったが遂に抑えきれなくなった。ええじゃないか音頭騒動などはこの典型的な例である。

 そして時は流れ、奴隷階級でない維新志士達によってついに徳川幕府が打ち倒される。この過程で維新志士、幕府共に農民を兵士として教育した。日本中に奴隷根性ではなく、支配階級の考え方を持つ人達が増えたのである。しかし、新政府が考えたことはカーストシステムの継続であった。そしてそのために、溢れすぎていた支配階級を排除しようと決めたのである。これに猛反対したのが西郷隆盛である。西郷は結局、士族という支配階級と共に滅亡の道を辿る。

  この時点で、日本国民のほとんどは奴隷階級出身の奴隷根性の持ち主となった。しかし一時的にそれがまた回復する。世界的に戦争の兆しが強くなり、どこの国も国民を兵士として育て始めた。日本も例外ではなかった。そのため大正時代は支配階級の考え方を持つ人が再び増えていった。そして日本は太平洋戦争へと進む。

 戦争では勇敢な精鋭ほど先に死ぬ。日本は派手に負け、わずかに残っていた支配階級層の考え方だった人はほとんどが帰らぬ人となった。GHQは日本を更に支配しやすくするために、当時の首脳陣達の処刑、支配階級であった華族の解散、財閥の解体、3S政策による奴隷根性促進、大麻の焼き払い等を行った。文字通り日本は骨抜きにされたのである。そして、これに日教組が拍車をかける。こうして出来上がったのが現在の日本人、超超奴隷根性民族なのである。

 ところでここまで書いてみて思ったんだけど、俺と同じこと考えて本にしてる人絶対いるよね?

 

 人間は物事を判断する時、最終的には3つの基準の中で自分が一番重視しているものを拠り所とする。
その3つとは

1 気持ち良いか良くないか
2 正しいか正しくないか
3 自分にとって損か得か

 この三者はそれぞれが違う方向に向かって進んでおり、重なる部分もあるが、三者が複合的に判断される事は決してない。人間は最後、必ずどれか一つを拠り所として判断を行う。

1 気持ち良いか良くないか

これは限りなく原始的で本能に近い判断基準である。自然が豊かで、人間が難なく暮らしていける環境ではこの判断基準を重視する人が多い文化が形成される傾向がある。古来日本もこのタイプであった。この判断基準を最終的に心の拠り所にする人間は良く言えば無垢で素朴、悪く言えば自堕落で動物的と言えよう。

2 正しいか正しくないか

主に一神教文化圏で見られる判断基準である。一神教では唯一神のみが正悪を決定するため、正しい選択肢というものが一つしか存在しない。そしてその神の決めた善悪に沿って行動する人間というのは、神に近づきたがっているとも言える。この判断基準を最終的に心の拠り所とする人間は潔癖症で完璧主義者が多い。

3 自分にとって損か得か

重商主義帝国で出来た判断基準である。中華文明圏では古代より国家=大商社であったので、この判断基準を重視する人が多い文化が作り上げられた。近世に入り、西欧諸国でも重商主義国家が現れ、このような価値観を持つ人々が増えた。この判断基準を最終的に心の拠り所とする人間は、手段と目的が逆転しており、機械のように生きることを美徳とする人が多い。

 まずは自分がどのタイプなのか見極めることが大事である。そして、自分の周りの人間がどのタイプなのかも考えてみよう。気の合う人間というのは絶対に同じタイプである。反対に違うタイプの人間と気が合うことは決してない。

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