» 2009 » 12月のブログ記事

 スウェーデンモデル、聞いたことがあるだろうか。1970年代以降の日本はアメリカのウーマンリブの影響を受けて、女性の社会進出、そして福祉国家の模範としてスウェーデンモデルを目指した。スウェーデンは税金で福祉をまかない、老人や社会的弱者が社会的強者の保護を受けて安らかに暮らすという国策に出た。更にスウェーデンは世界一フェミニズムの国家であり、アファーマティブアクションによって、男女の社会進出率を同じにするという政策を行った。フェミニストや福祉を謳う偽善者から見ればまさに理想の国家である。そんなスウェーデンだが、実態はどうなっているのだろうか。

結果はこうだ。
・離婚率50%以上
・シングルマザー率7割
・自殺者は毎年2000人程度で、そのうちの25%が29歳以下
・女の社会進出率は世界一だが80%以上はパートタイマー
・10万人あたりで、強姦事件が日本の20倍以上、強盗は100倍以上。10万人あたりの平均犯罪数は、日本の7倍、米国の4倍。
・国が伝統的な家庭の仕事を肩代わりしているが、その費用は毎年増大している。その結果スウェーデン人の税負担は75%に達している

 どうしてこのような事になったのか。それは多くの文献で認められている通り、「家庭の崩壊」がもたらした結果なのだ。スウェーデンは声高らかにフェミニズムと福祉の充実を謳った。結果として女は自己の権利ばかりを主張し、完全個人主義に走った。家庭というものをおざなりにし、個人の利益と快楽を優先した。フェミニズムの弊害たるやひどいもので、アファーマティブアクションによって公的機関の職はほとんど逆差別的に女にとられる。しかもアファーマティブアクションによって女は能力が低いままその職務に就くため全体的な生産力は低下する。

 また、職務の内容を見ても男の職種は160前後に広く分散しているが女の場合は20種前後の特定分野、特に公共の福祉部門に集中する結果となっている。結局女の社会進出なんて絵空事だったわけで、ほとんどすべての女は経済的責任の低い楽な仕事にしか就きたがらなかった。つまり女は自立したいがために、自分の子供、親を施設に預け、カネをもらって、他の子供、老人の面倒を見る。そしてその収入の多くが税金に消えていく。なんという本末転倒であろうか。

 さらに家庭崩壊はゲトー社会を形成するという側面を持っている。前回のエントリ、女脳社会2 http://www.uchidatakahiro.com/sickjapan/20091113_151.htmlで述べた通り、シングルマザー家庭では女脳の人間しか育たない。だから犯罪率が高まる。これはアメリカの黒人社会問題やドイツの教育問題を参照にしてもらえばよくわかるであろう。日本では暴走族がよく出てくる団地を想像していただくとわかりやすい。

 スウェーデンの女は「女は女であるというだけで価値がある」という馬鹿げたフェミニズムに毒されてしまい、家庭を見失った。自分中心主義に陥り、世界の主役が自分だと勘違いして好き放題生きてしまった。結果として誰も結婚してくれなくなったので、彼女らはイタリアなどの南欧に出かけ、男を買い、子を産んだ。しかし南欧男は無責任なので当然逃げる。そして彼女らはシングルマザーとして母子手当てを受けながら生活している。これらの税金を負担するのは彼女ら自身と、スウェーデンの男達である。尚、年金もスウェーデンは女は男より払う額が少なく、男より貰える額が多い。

 男のほうは悲惨である。散々好き放題生きてきたスウェーデン女のツケを払いながら必死で働いている。当然社会が面白くないのでグレて犯罪に走る。想像してみたまえ。真面目に頑張っても何ひとつ報われる事なく不真面目に生きている女のツケを払わせられる社会。こんなのバカバカしくてやってられなくなる。ヤクザになって税金を払わず生きる道を選ぶのは当然であろう。

 更にこのようなフェミ女の下に生まれた第二世代の子供も悲惨である。都市部での家庭の構成割合で、最も多いのは母子家庭、その次に多いのは連れ子の夫婦、3番目が両親とも生みの親という家庭のため、学校でも両親が「生みの親」という子は20%程という状態だ。こんな不安定な家庭環境の下グレないわけがない。こうして女のツケを払い続けた男と、その女の子供達はグレにグレて犯罪に走りまくる。この国に希望なんてモノはないのだ。

 フェミニズムという害悪でしかない発想はいい加減やめるべきである。フェミニズムを推奨するとどうなるのか、それはこのスウェーデンという国家が身を以って提示してくれた。アメリカも馬鹿げたことに必死でその後を追っている。アメリカは福祉を謳ってはいないのでスウェーデンほど悪夢が加速することはないであろうが、日本はどうであろうか。今現在でさえも皆が偽装離婚をした瞬間に国家が破綻するというのに、更に福祉福祉と息巻いている。このままこの国がフェミニズムと福祉を謳うなら、破滅は目に見えている。

 尤もこの内田貴洋はもう手遅れだと思っている。主婦の遺族年金制度、ベトナムやインドネシアに買春しにいく日本女、介護にばかり予算を割く行政、アファーマティブアクション・・・

 

 今更こんな話をするのも馬鹿くさいのだが、おそらくほとんどの日本人は宗教の必要性を全く判っていないのでこの内田貴洋がサービスとして語ってやることにする。

 私が中国にいた時、少数民族の人々とお話をする機会があった。彼らが漢人の事をどう思っているか聞いたところ、面白い答えが返ってきた。
「あいつらは信用できない!何故なら神を信じてないからだ!」
驚いたことに違う宗教である他の民族や、カトリックやプロテスタントの白人もこれに同意した。つまり同じ宗教を信仰しているか否かが問題ではなく、宗教そのものを持っているかどうかが大事だったのである。

 実はこの問題は人間のあり方に深く関わっている。人間はその行動基準の中に絶対的価値観を求める。つまり善悪である。何故悪いことをしてはいけないのか。これは理論だけでは説明のできない問題である。何故泥棒をしてはいけないのか、何故人殺しをしてはいけないのか、これらを理論で説明しようとしても不可能である。何故なら善悪とは絶対的価値観なしには存在しえないものだからである。宗教は人間にこの絶対的価値観を植え付けるものである。「なぜなら神がダメと言っているからダメ」この一言ですべて片付いてしまうのである。宗教は人間の倫理を統率し、規範のある社会を作るのに役立つのである。

 では最初に述べた漢人の場合はどうであろうか。漢語で人生とは「作人」と書く。意味は人を演る。人を魅せる。といったニュアンスになる。つまりどれだけ裏で悪いことをしようがバレなければオールオッケー!という考え方である。尤もすべての漢人がこういうわけではないが、漢人にはこういう人が多いのは事実である。世界中でチャイニーズマフィアが恐れられているのはこういった彼らのメンタル面の要素がでかい。神を信じない彼らは神を信じる人々からは想像もできないような残虐で大胆な犯罪を犯す。そして彼らは彼ら同士でも容赦なく裏切り行為を行う。神を信じてないので集団への帰属意識がほとんどないのだ。

 翻って現代日本を見てみよう。日本は国家神道を天皇の人間宣言でブチ壊されてから、宗教を失った。「悪いことをしたらバチがあたる」という本来日本人がおぼろげに持っていた信仰の意識は我々の祖父母世代から徐々に薄れていき、今の若い世代は殆ど全くそんな意識を持ち合わせていない。結果として若者は泥棒、買春に走り、家族という社会を構成する最小基盤が滅茶苦茶になってしまっている。きちんとした家族の元で育たなかった人間は精神的に子供のまま大人になる。このアダルトチルドレンが社会の半分以上を占めるようになると、その社会はゲトーとなる。ゲトーは団結力がなく、ただその社会内で限りある資源を奪い合い、殺しあいを繰り返す。ゲトーは社会として成長することがなく、いずれは滅びる。

 ひとりひとりがきちんとした倫理観を持って規範のある社会を作らなければ、人類に平和など訪れない。そして倫理観のためには絶対的価値観が必要であり、絶対的価値観のためには宗教が必要なのである。どこの国に行っても無神論者は共産主義者というレッテルを貼られるのはこのせいだ。宗教を持たない人間は倫理観がない存在、すなわち人間ではないとみなされるのが世界の常識なのである。ここは日本だ?いや、日本も世界である。

 すべてを見通す内田貴洋は完全無欠で合理的な宗教作りに乗り出す。

 内田貴洋が考える理想の宗教とは、万人に幸福を得る機会が均等に与えられる世界の秩序を作り出すことが出来る宗教である。内田貴洋は幸福値というものに絶対的価値を置く。すなわち物質的裕福さがそのまま精神的裕福さにはなりえないという考えだ。これはどの宗教でも見られる事である。多くの宗教はこの世とあの世を分離し、精神と肉体の分離を説くことによって物質的なものと精神的なものを分けようとする。だがしかし内田貴洋の宗教は合理主義を目指す。よって物質的裕福さもある程度幸福値に影響を与えるものと考える。反対に精神性、これを極める事はそれ即ち幸福値を上げることになるが、行き過ぎた精神的裕福さの追求は時として他者からの暴力の前に屈してしまうとする。内田貴洋の宗教は戦う宗教だ。内田貴洋の教えは人類の未来を作る。人々は内田貴洋の教えを後世に伝えるために戦わねばならない。己の脳に刻まれた内田貴洋の宗教という財産を、暴力という手段によって奪われてはならない。暴力の前に屈することはこの素晴らしき教えに対する冒涜だ。内田貴洋は宗教的弾圧には武器を持って立ち上がれと教える。内田貴洋は暴力を否定しない。何故なら暴力こそが、人類の繁栄を永続させる最終保障であるからだ。

 内田貴洋が何を以って幸福値とするか、これを現代科学で言うならば、脳内麻薬分泌量である。内田貴洋の宗教は科学をも取り込む。ただし、この脳内麻薬は多ければ多いほど良いというわけではない。自分でコントロールできるかどうかが大事なのである。アドレナリンで抑えが利かなくなって人を殺す、エンドルフィンの出しすぎで他に何も出来なくなる。これらは幸福とは言わない。大脳新皮質の理性によってこれらをコントロールできて初めて幸福値という基準を設けて良い事となる。内田貴洋は外因的要素でこれらの脳内麻薬を抑制したり活性化させる事を推奨する。例えそれが直接麻薬物質を自己に投与よるものであってもだ。ただし、ナチュラルでコントロールできる状態がベストであり、薬物に頼るのは幸福値を下げる事になる。薬物は物質であり、物質に依存するのはもしその物質が無くなったらどうしよう、という不安すなわちストレスを頭の片隅に抱え込むことになるからだ。ストレスがあると脳内麻薬の総出量も減るし、コントロールも容易ではなくなる。

 内田貴洋が現存する宗教で最も合理的だと思うのはイスラム教である。しかしイスラム教にはいくつか欠点がある。預言者ムハンマドはクルアーンを絶対唯一不可変の神の言葉とした。クルアーンは聖書をベースに作られている。まずここに問題がある。ムハンマドは確かに天才だが、結局ユダヤ教をベースにしているため、無理がある箇所がいくつかある。内田貴洋は進化論や遺伝子論によって自己の理念を理論武装しようと考えているため、進化論を否定するような創造主の存在を認めることはできない。また世界は移り変わるものであり、暴力によって正当なものが捻じ曲がったものに滅ぼされる事もある。一時の栄華でも見逃してはならない。この世はやるかやられるかだ。

 次回に続く。

 女の生き方は二通りある。愛人タイプと本妻タイプである。もちろん男にもあるのだが、現代では男を養う女など皆無なので男の愛人タイプは絶滅した。日本だけでなくどこの国でもこの男愛人はいたようである。主に貴族階級に飼われる事が多かったようである。

 さて、翻って現代日本を見てみよう。現代日本の女の大多数の夢の一生とは、色んな男と知り合って、色んなモノを買ってもらって、沢山セックスもして、色んなタイプの恋を経験する事、である。ブランド物に身を包み、コスメやネイル、アクセサリーで自分を飾り立てる。もちろんエステも欠かさない。いかにしてかわいく男に甘えるかの技術を磨き、いかにして男を落とすかを競い合う。勉強など全くしない。自分がいろんな男を渡り歩く様を、蝶が花を渡り歩く様になぞらえて自己陶酔したりしている。まるでファッションモデルの世界を模倣しているかのようだ。

 が、しかしこれは愛人の生き方である。こんなふざけた生き方をしてきた女を一生養ってやろうなんて危篤な男はまずいない。男は結婚相手には本妻型の生き方をしてきた女を選ぶ。すなわち、勤勉に自活できる能力を身につけ、母になる努力を怠らなかった女である。本妻型の生き方をしてきた女は世の中の現実というモノをよく知っているので、地に足のついた考え方をしている。

 問題は愛人型である。古来の日本なら、愛人型の生き方をしてきた女でも妾というポジションに甘んじることで、なんとか生活をすることが出来た。しかし現代社会では性風俗の充実等により、妾そのものに価値が全くなくなってしまった。性を安売りする女が次々と出てきてしまったせいで、女の性という限りある資源を女全員で奪い合っている状態だ。まさに女の敵は女。ビッチの敵もビッチである。

 さらに信じられない事は、愛人型の生き方をしてきた女が、自分が将来本妻型の生き方が出来ると勘違いしちゃっている点である。残念ながら世の中そんなに甘くない。君達が憧れてきたライフスタイル:ファッションによるヒエラルキー決め、男に貢いでもらった金額の自慢大会、自由奔放で一人の男に縛られない生き方、それは西欧のモデル業界、すなわち愛人型女社会なのである。日本人の馬鹿ビッチスイーツは愛人型社会の都合のいい部分だけしか見ていないが、愛人型社会には愛人型社会の厳しさがある。

 愛人型社会はまず、保障がない。いくら良いパトロンがつこうと、そいつの気分次第で即切られる。或いは、他にいい女がいたらパトロンはあっさりと裏切ってそっちへ行く。もとから本妻型社会のような契約社会でもないので、それは当然の事。お互いに相手を縛る権利などない。それがわかっていないから日本人のキャバクラ女は「人の客寝取りやがって!」なんてロッカールームで殴り合いの喧嘩をしたりしているわけである。また愛人型社会は、その美貌という刹那的な魅力のみで成り立っている。日本人がいくらがんばってもそんなに美しくないよ!という議論はおいておいて、美貌というのは実際問題限りがある。

 どんな美女でも23を過ぎると劣化を隠しきれなくなるのだ。よって愛人型の生き方を選択した(おそらく殆どの女は流行に流されて知らず知らずのうちに選択してるのであろうが)ら、22歳までにマンションを買ってもらわなければTHE ENDである。マンションを買ってもらい、パトロンから捨てられたらそれを賃貸に出して自分がボロアパートで生活するのだ。子供を持つことも許されず、過去の栄光に縛られてひっそりと暮らすのである。若い頃に努力もしないで散々いい思いをしたのだから、それは当然の報いである。人生はそんなに甘くない。

 その昔、性を売る商売は将来の自分から借金をしているようなものだ、と聞いて妙に納得した覚えがあるが、性の売り方は何も水商売だけではなく、普通の交際においても起きている事象なんだなと再認識した。
 今現在モテてる私すごい!とか思っちゃってる人は愛人型人生を選ぶが本妻型人生を選ぶか、よく考えることである。ちなみに一度愛人型人生を選んだら(乗り換えを行ったら)もう二度と本妻型人生には戻れない。

 無知とは恐ろしいものだ。今の40~20歳くらいの殆どすべての女は、自分らがモデルとしてきた生き方が愛人型であるという自覚がない。マスコミの罪は重い。尤も私には、マスコミ連中が愛人を作りたくてこのようにメディアを悪用したとしか思えないのだが・・・

 女がセックスするのに掛かるコストというのはほとんどないに等しいと言える。最低限髪型と体毛処理さえ施していれば、セックスだけなら8割以上の確率で成功する。しかも自分から100%アプローチをかける必要もない。事実ビッチスイーツは驚くほど多くの男とセックスしている。

 男の場合はどうだろうか。セックスに掛かるコストというのはとてつもなく高い。まずターゲットとなる女に近寄る。この時点で成功率が3割。そこから仲良くなるのに成功率は2割。更に口説き落とすのに成功率は1割もいかない程度であろう。最終的には1%未満という数字である。その上きちんとした社会ならば、結婚しなければセックスは出来ない。

 だが男がセックスするのに暴力という手段を使うことをためらわなければ、8割以上の確率で成功する。この暴力という手段にためらいがない男をレイプ魔と呼ぶ。両者はただ欲望のままにやりたい時にやりたい男とやりたい場所でやるという性的モラルの欠如という点では全くの同義である。

 しかし殆どの男は良心や理性が性欲に勝り、レイプする事はない。が、ごくまれに理性や良心が全くなく、レイプばかりしている男がいる。このような男は社会的制裁、もしくは個人的報復を受ける。

 ではビッチスイーツはどうだろうか。やりたくなったら適当に男友達に電話をかけて誘惑すればそれで事足りる。理性も糞もない。本能の赴くがままにセックスしまくっている。しかもビッチスイーツのタチの悪い所は、自分が理性もなくただ欲望のままにやりたい時にやりたい男とやりたい場所でやっているという性的倫理観感がレイプ魔のそれと変わらないという自覚がない所である。それどころか「それだけ多くの男に愛された」とか言って自分を美化しちゃってる始末である。レイプ魔が「俺は多くの女を愛した」とか言ってるのとあまり変わらない。

 だがビッチスイーツは社会的制裁を受ける事は全くない。少なくとも法的には全く制裁を受けない。昔の日本や諸外国ではビッチスイーツは社会的制裁を受ける。そもそもBitchという単語の存在そのものがそれを物語っている。昔の日本ではサセコちゃんなどと呼ばれたりして迫害されたものだ。ところが今の日本では糞フェミ思想に毒されたマスコミがビッチスイーツ人生を女の生き方の模範のように取り上げ、男に我慢をさせている。これは間違っている。ビッチスイーツはレイプ魔と同じメンタリティの持ち主であるから、本来迫害されるべきものなのだ。

 南アフリカという国がある。男はほとんどがレイプ魔である。赤子のうちからレイプされる。こんな国に女として生まれたら将来への希望など殆どない。ビッチスイーツだらけの国の男も同じ思いをする。女が全員ビッチスイーツでは将来自分が家庭を持つ希望がゼロなってしまう。きちんとビッチスイーツを迫害しないと未来への希望が持てない社会になってしまう。

 ところが大衆はマスコミの思い通りに操られ、処女がダサいなどと男までもが抜かしだす始末。正しい価値観から言えば経験豊富=ただの色情魔、ゴミなのであるが、どうもこの国の民衆は竹槍でB29を落とそうとしていた頃からあまり変わっていないらしく、なかなか洗脳から抜けない。一番ひどいと思ったのは、自分の母が処女婚だったことを「ぶっちゃけ恥ずかしいんだけど、俺の母親は処女で結婚したんだよね。」などとクレイジーな発言を私にした男がいた事である。おそらく彼の価値観の中ではレイプ魔=イケてる、なのであろう。頭がおかしい。

 こんな頭のおかしい人々ばかりの世の中だからビッチスイーツは自らの性欲の赴くがままにいろんな男とやりまくっても誰にも後ろ指さされる事なく堂々と生きているわけだ。男で言うと「あ、あの女かわいい。やりてー。レイプしよう。」こんな感覚で生きているわけである。だが誰もそれを間違っているとは指摘しない。これこそまさに糞フェミの思い通りの世の中である。男のレイプ魔は下手すりゃ死刑になるのに同じ性的モラルのビッチスイーツは女だから、という理由でOK。むしろ美化されている。これはおかしい。社会が女に欲望のままに生きることを推奨している。こんな事をしている文化は間違いなく滅びる。
 
 実はこれは日本に限ったことではなくすべての糞フェミ国家で起こっている問題なのである。アメリカでSEX AND THE CITYというビッチスイーツどものライフスタイルが描かれたドラマが大ヒットした。これはそれまで迫害されてきていたビッチスイーツの生き方を肯定する内容だったからヒットしたのである。アメリカでビッチスイーツが公的に市民権を得た証拠である。
 なんとふざけたことに日本でもこのドラマはウケている。それはそうだ。大事な自己肯定のためのツールであるからだ。「彼女達みたいに欲望のままに生きてても問題ないんだ!」と、背中を押してもらえるのである。

 内田貴洋はこの腐った日本の現状を嘆くと共に、いずれ正しい価値観が復活し、ビッチスイーツ共が日本社会の大きなお荷物になる事を危惧する。ビッチスイーツの人生は20代前半で終わる。残りの人生はいかにして他人の足を引っ張るかばかり考えるようになるからだ。

 今日は男の立場からなぜ非処女が結婚に向かないかを語ってみたい。このエントリは多くの男の目を覚ますと共に、正しい男女のあり方を今一度見直すために内田貴洋が貴殿らに与える試練でもある。

 この理論を展開するとよく「え、でも自分が奥さんとしちゃったら奥さん非処女になっちゃうじゃん。」という馬鹿げた理屈で反論してくる阿呆がいる。このような事を言う輩は女の処女を勘違いしている。正しくは非処女=自分以外の男に身体を許した過去のある女、である。もっと生々しく言うと、自分以外の男に情けない格好で精子をどくどくと注入されちゃった過去のある女、である。ここをよく把握しておいてもらいたい。

 恋愛の本質は好奇心と独占欲である。好奇心がときめきをもたらし、独占欲が嫉妬を呼ぶ。後者はDNA理論、すなわち動物は自己のDNAをいかにして残すかということを本能として持ち、それに従って生きるという法則からも説明が出来る。ライオンやチンパンジーはグループのリーダーであるオスが入れ替わると、前のリーダーの子供を皆殺しにする。これは自分以外のDNAはどうでもよく、自分のDNAをいかにして残すかに重きを置いているからである。この行為を一般的に子殺しと呼ぶ。

 子殺しに見られるように、動物は自分の遺伝子の問題となると非常に神経質になる。 オスは自分の確保したメスに他のオスを近づけさせない。いつそいつの遺伝子が種付けされるともわからないからだ。これが男から見た嫉妬の正体である。
 嫉妬は今現在だけではなく過去にも及ぶ。過去に別の男の子を身ごもったとする。この時母体に大きな変化が訪れる。お腹の中の子の遺伝子の半分は男のものである。そして、母体はその子供と血を共有している。自分の純血な遺伝子以外はいらない、というのは子殺しで十分に証明されている。だから男は前の男と性交渉を持った女は避ける。

 また同時に、本来動物は避妊などしないものであり、DNA鑑定も自然界には存在しない。他のオスと交わった形跡がある場合オスは生まれてくる子供が確実に自分の子供であるという確証が持てない。であるからして処女という保障はオスにとって非常に有効な証明書になるのである。避妊してたから大丈夫、不安ならDNA鑑定もある、という問題ではない。これは男に本能レベルで組み込まれてる自己DNA保護の考え方であり、いくら理論を以って理性でそれを抑えようとしても無理である。

 以上動物的本能から嫉妬を説明した。次に人間的感情による嫉妬ー嫌悪の説明に入る。

 男は結婚というシステムによって女に最大の愛を示す。女権型社会では男に女の扶養義務がないので、女権型社会の場合は男は結婚で最大の愛を示すことは出来ない。しかしほとんどの社会は男権社会である。同時に男脳社会でもある。

 男は結婚する時に、一生この女を養って幸せにするんだ、という覚悟を背負う。最大の愛でその女を包む。最大の愛を証明するために毎日働く。これは結構しんどい作業だ。ギブ&テイクではないが、女のほうもそれに応えなければそのうち関係は破綻する。ところが女が他の男で処女を失っていると、女は最大の愛をその男に示すことが出来ない。女側から見たら軽い気持ちだったのだろうが、結婚するような真面目な男にとって、処女を失った相手の男というのは初婚の相手と何ら代わりはない。それはそうだろう。最後までやっちゃっているのだから、結婚した自分と一体何が違うというのだろうか。コンドームをつけないでセックスする権利があるかどうか?そんな下らない問題ではない。

 男はどうにか頑張って最初の男より大きな愛の証明を女から獲得しようとするが、いずれそんな事はどうやっても無理だと気づく。自分は頑張って最大の愛を示しているのに、女はそれを自分にしてくれない。最初の男への止まらない嫉妬、そして現状への苛立ち。これは想像を絶する苦しさである。相手を想えば想うほど苦しくなる。婚前非処女で結婚した妻達はこの夫の苦しみを理解してほしい。だが過去は決して取戻せない。男が誠実であればそれはDVという形になって現れる。事実DVの原因の90%以上が、このような嫉妬に基づく感情であるというデータがある。男が誠実でなければ、浮気しまくる。自分は最大の愛を誓ったのに、女は最大の愛を誓えてない。この不平等な関係に嫌気が差していく。こうして非処女婚はたいてい以下の道を辿る。

1:家に帰るのが嫌になり、酒を飲んだりパチンコをしたりしてとにかく家庭を顧みなくなる。誠実じゃなければ浮気をしまくる。

2:女を滅茶苦茶束縛する。奴隷のように扱うことで自分への愛を示させようとする。誠実であればあるほどそれに暴力がついてくる。だが結局そんなことは無意味と悟る。

3:自分以外の男の性器が入ったという事で女が汚物に見えてくる。一緒にいることが苦痛になる。ここまで来るとかなり重症。

 男は案外潔癖症なもので、自分以外の男の性的なモノは不潔と感じる。これは嫉妬の感情とはまた別問題だが、嫉妬から嫌悪という感情に至るプロセスにおいてこれが一気に拍車をかけてくれる。他の男の性器と間接キスなど誰もしたくはない。細胞は三ヶ月ですべて入れ替わるそうだが、いくら理性で自分を納得させようとしても無理なものは無理である。綺麗に殺菌消毒したとしても他人の歯ブラシなんて使えないだろう。

 こんなことを言うとすぐに人間をモノ扱いしてる、などと反論する女が出てくるが、人間をモノ扱いしているのは彼女達のほうだ。彼女達にとっては他人の精子など、ただのモノなのだろうが男にとっては究極に不潔な意味を持つ。

 以上人間的感情から嫉妬ー嫌悪を説明した。続いては人間的理性から何故非処女が結婚に向いていないかの説明をする。

 「すべての女は母である。」これは私が大好きな天才ムハンマドの言葉である。すべからく現代日本人のビッチスイーツはこれを忘れている。母は聖なる存在でなければならない。ある日突然あなたが母親に、「私お父さんの前にも彼氏がいたんだよね。セックスも沢山したよ。好きだったからね。気持ちよかったし。ひょっとしたらあなたじゃない子を産んでいたかもね。」などと言われたらどう思うであろうか。おそらくあなたは大きく傷つき、自己の存在を肯定できなくなるだろう。

 このような母の下に生まれた子は確実にまともには育たない。大抵の場合は同性愛者になる。人によっては「結婚しても別に子供いらないし」などとほざくであろう。しかしそのような人は人類の未来を放棄している個人主義の快楽主義者である。ここでもまたイスラームの言葉を引用する。

“ 「産みたいひとが産めばいい」というのも成り立たない。皆がそう考えれば人間はいなくなる。子を産まなければ人類は存続できない。そして母が子を良い人間になるよ うに愛情をもって育てなければ、排他的な人々があふれ、人類の文化も社会も壊滅するだろう。産まない自由を主張する者は、自分の母あるいは祖先がそのような考えを もたなかったからこそ自分が存在しているのだということを、どう受けとめているのか。産まない自由ということは、自分のことを考えているからだ。子供のためでも、 社会や人類のためでもない。もし何かの問題によって、子を産むことが困難や危険なら、その場合は他の問題であり、自由の問題ではない。

 自分だけを中心として考えるから、母になるか否かは自分で決める問題だと思ってい る。子を産んで育てるかどうかは、子が欲しいかどうかの問題だという。子は親のも のという感覚だ。自分中心主義。そこから断絶や非行やいじめがスタートする。産まない自由などという人々は、自立と独立を求めすぎて、かえって自分を人類の流れから切り離してしまい、自己の存在感を失ってゆく。あるいは、自己の存在意義など認 めていないのかもしれない。偶然に生まれてきて、なんとなく死んで行く。生まれてきたから、しかたなく生きている。生きていても死んでも変わりはないが、わざわざ 死ぬこともない。そして人類が存在しようと滅亡しようと、どうでもいいことなのだ ろう。 ”

 このような人類の未来を考えない人間は無責任で自己中であるので、社会的に害悪として認識されなければならない。間違っても母親になってはならない。母と同じく無責任で自己中な子供が育つだけである。

  続いて浮気の可能性の問題がある。女は精神的に弱くなった時に元彼にすがる奴が多い。元彼というのは便利な存在である。友達以上恋人未満、それでいて気楽に付き合える相手。こんなふうに考えている女が大勢いる。元彼といつまでも身体の関係を続けている女のなんと多いことか。また元彼にすがらない女であろうと、経験人数が多いほど浮気へのハードルは低くなる。犯罪を犯す時に0回目から1回目、1回目から2回目、3回目から4回目、と経験地が増えるほどハードルが低くなるように、浮気問題も同じことが言える。彼氏をとっかえひっかえしていた女は乗り換えの罪悪感がほとんどない。反対に0から1へのハードルは果てしなく高い。よって処女婚のほうが浮気をする可能性は絶対的に低いのである。

 更に比較対象の問題もある。ドラッグと同じで大麻しか知らなければ大麻で満足するが、よりハードなドラッグをやればやるほど、先にあるトリップの可能性を求め続け、質も量も過激になっていく。恋愛も同じことが言える。多くの男を知れば知るほど男に対する要求値が高くなっていく。そして、乗り換えを一度経験すると「ダメだったら別れて新しいのを探せばいい。」という発想が出来てしまう。現状の関係をなんとかして改善しながら保っていこうとは露ほども思わなくなる。

 よくその時は本気だったから、などと言い訳をする女を見るが、本気ならなぜ別れてしまったのだろうか。愛が軽いにも程がある。或いは好きだったからしょうがない、などとのたまう。成る程つまり結婚した後に誰か別の人を好きになって、本気になってしまったら簡単に身体の関係を持つわけだ。恋心というのは長くても3年で冷める。3年経ったら他の男にときめいて、好きになってしまったから浮気もしょうがない、という理屈になるのであろう。そんな女は母になる資格もないし、妻になる資格もない。こんな女の「本気の愛」を信じろ、というほうが無理である。反対に処女婚であった場合、恋心が冷めても自分以外を知らないという信頼がある。なので愛は残る。愛が残っている限り関係は続く。そのうち何かのきっかけで恋心が復活する。殆どの男は年を取っても愛妻家でいたいものだ。

 以上長くなってしまったが、非処女が結婚に向かない理由を説明した。
とは言え婚前非処女の諸君が絶望する事はない。ただひとつ、婚前非処女でも結婚して幸せになる道は残されている。

 それは男を養う事である。自分が夫に最大の愛を示せなかった事を懺悔しながら毎日過ごすのだ。そして、長期間に渡る愛の証明として、男を扶養するのである。この形態なら婚前非処女でもある程度幸せな結婚生活が送れるが、当然自活できないレベルの男としか結婚できない。そしてまた、夫を狙う処女が現れた場合、婚前非処女だった女は絶対彼女に勝つ事が出来ない。

 
 

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