» 人種人類学のブログ記事

 東南アジアの主要な価値観で、ヨーロッパはもちろん東アジア及び南アジア、中東などとは相容れない価値観がある。それは「先生視点」である。私はこれがまるで小学校のクラスのような価値観であるなと思ってこう命名することにした。概要は以下の通りである。
・クラスでいじめがあったので、いじめられっこAはいじめっこ達の事を先生にチクった
・授業を受けている時に先生がミスをしたので、Aはミスを指摘した
・学校の設備が壊れていたのでAはそれを先生に伝えた
・授業で分からないことがあったのでAは先生にそれを質問した
 このような時、我々東アジア及び南アジア、中東、ヨーロッパではAは模範的な良い生徒であるとされる。しかし東南アジアではAは悪者である。
 それは、先生から見るとAは自分にとってメンドクサイ仕事を増やす「問題児」でしかないからだ。先生にとって、真の教育などは大事でなく、いかにして楽して金を得るかのみが大事であって、事を荒立てるAの行いはまさしく「悪い子」なのである。
 私が例のコタキナバル事件の後、多数のマレー系マレー人から意味不明なメッセージを貰ったのはこういった文化背景があるわけである。
「警察だって人間なんだから騒ぐな」
「こういうことはどこでだって起きている。なんでお前は騒ぐんだ」
「こんなことで騒ぐなんてお前はプロフェッショナルじゃない」
「俺も同じ場所で同じ被害にあった、お前だけだ騒いでいるのは」
 これらはすべて先生視点で行われているものである。彼らにとっては事なかれ主義が第一で自分が正義を押し殺して耐える事が美徳であり、私のように問題提起するのは言語道断の「問題児」なわけである。
 何故この先生視点が誕生したかというと、単純に教育者が教育をただの金儲け、ルーティンワーク、雇われ労働という認識しかしていないためであって、教育機関の教師の教育がそもそ間違っているからである。政府は教育者の教育に完全に失敗している。
 また、社会が未熟でこの小学生の価値観がそのまま大人の社会にも持ち込まれて、社会を構成する人間がガキのままなのも大きい。結局自分達で近代化社会を作り上げていないから、自浄作用や創造性といったものを知らずに育つ。だからそれに必要不可欠な「正邪判断」というものも学ばずに育つ。結果として人々は先生に媚びを売る小学生の価値観から何も発展しないまま大人になっている。社会に出たら「先生」は存在しないのだからこれは意味がない。
 タイ、ラオス、ミャンマー、カンボジア、マレーシアはこの先生視点が非常に強く、正義よりもこれが優先される。ベトナムとインドネシアはちょっとわからない。フィリピンは明らかに違う。また東アジアでも韓国はちょっと怪しい。北朝鮮はわからない。事情を知っている人のコメントを待つことにしよう。

 よく日本は島国で日本人は島国根性だから駄目だ、といった意見を耳にする。

 一見ふむふむと納得してしまいそうになる理論だが、その島国根性とは何か、と説明を求めると答えられない輩も多い。そんな困った連中のために世界で最も神に近い男、内田貴洋が正しい島国根性の解釈について述べる。

 島国というのは地政学上、基本的に外国の文化が一方的に入ってくる。だからその中でいかにしてそれを受け止めて、自分達だけで楽しむか、という事に主眼を置くことになる。間違っても自分達以外に自分らの文化を発信したり、他国を自分らの文化で乗っ取ろうなどとは考えない。また、入ってくる他文化をはねつけてやろうだとかそういうことは一切考えない。必ず受け止めなければならないといった一種の脅迫めいた概念を持ち合わせてもいる。

 よく島国根性と田舎っぺ根性を間違える人がいるが、田舎っぺ根性と島国根性は対極にある。田舎っぺ根性とは、自分達の文化が世界の共通文化だと考えていることである。また、村八部や閉鎖的というものを島国根性だと解釈している輩もいるが、大陸でも田舎っぺは閉鎖的である。

例えば

クソ熱い亜熱帯でスーツを着てるヨーロピアン
どこでもタバコを吸って地面にゴミを投げ捨てる中国人
空港のソファーを自分のベッドのように扱うアラブ人

 こういうのは田舎っぺ精神である。外国で得意げにアメリカンイングリッシュを捲くし立てていたり、アメリカ式の朝食を要求し、用意できないと怒りだすアメリカ人もまた、典型的な田舎っぺ根性丸出しの人種であると言える。ひどいのになると日本って車で何時間?などと聞いてくる有様である。世界一カッペなのはアメリカ人で間違いない。

 話が横道にそれた。では島国根性ムキ出しの例をいくつか紹介しよう。

宝塚劇団
なぜか外人役が日本の役者で演じられるドラマや映画
なんかよくわからない捻じ曲げられた西欧解釈をしているアニメやゲームの中世西欧世界観
サイゼリアのミラノ風ドリアなど、あくまで本場(風)を謳っている食品

このように、いわゆる手前味噌で歪んだ外国文化を吸収する姿こそが島国根性なのだ。これらの例に見られるように、外国人に対する配慮など全くしていないのが島国根性の特徴である。

本場で修業した「日本人」のシェフのレストランが繁盛し、正真正銘本場出身の「外国人」のレストランがウケない。この一言に島国根性のすべてが詰まっている。食品で思い出したがピザハットなどのデリバリーピザはイギリス発祥である。あれも実は、「イタリアのピザ風なイギリスの食べ物」であって、島国根性の表れの代表例である。カレーライスや紅茶も同様の発想である。

 面白い事にブリティッシュも典型的島国根性の持ち主である。そのブリティッシュが新大陸というデカい土地を確保したのがアメリカである。映画「トロイ」で金髪碧眼のブラッドピットがギリシャ人のアキレウス役を演じていたのを見た時、ブリティッシュであるショーンコネリーがロシアの提督役やベルベル人のスルタン役をやっていたのを見た時、この内田貴洋はハリウッド文化が島国根性から脱却しきっていない事を確信した。だが、ここでひとつ考えてもらいたい。

 ブリティッシュは島国根性があったからこそ、大英帝国として世界に冠することが出来たのではないのか。大英帝国と争った列強は数多いが、大英帝国ほどその統治はうまくいっていない。大英帝国は占領地に総督を置き、その土地の習慣や土着の貴族等を巧みに利用してスマートな支配を行ったからこそあれだけの栄華を築くことが出来たのである。なぜ大英帝国がそのような占領地政策をとったかというと、彼らは島国根性があったからである。決して自分達と土着の貴族を混ぜることがなく、また、自分達の文化を押し付けることもしなかった。ただひたすらに自分達だけで楽しむことしか考えなかったのである。土着の習慣を狡猾に利用するやり方はまさに島国根性のもたらした観察眼の結果と言うことが出来よう。

 進化論、皆さんご存知だろうか。いわゆるエボリューションである。進化論には二つの意味がある。進化が起こっているという意味と、もうひとつは進化のメカニズムを説明するという意味だ。この後者において、現在進化論には様々な説があるが、最も有力なのは自然選択説である。これは即ち、ひとつの種の中である形質を持つグループと持たないグループが出来、環境の変化によってその形質を持つグループが生き残りやすく、その形質を持たないグループが生き残り難くなった時、その形質を持つグループが徐々に生殖に有利になり、その形質を持たないグループは徐々に淘汰されていく、というものである。

 この例を説明するのにはキリンなどがわかりやすい。少しでも長い首を持つほうが生存率が高くなり、当然生存率が高い固体のほうが子孫を残しやすい。よってキリンは全体的に首が長く進化した、という事である。

 これとは別に性選択説というものがある。こちらは生存率とは別に、生殖競争において有利なほうが子孫を残せたので、その種は徐々に生殖競争に有利な形質を持った個体に進化の方向がシフトした、というものである。カブトムシの不必要にゴツい角や孔雀の明らかに無駄で生存に不利な羽などを見ていただくとわかりやすい。要するに同性間の戦いや性的魅力が高いほうが子孫を残せたので、生存に不利な形質であろうとその種はその方向に進化した、という事である。この性淘汰説は自然淘汰説とは別のベクトルであるが、広義の自然淘汰説の中に含まれている。

 人間も自然選択説や性選択説とは無縁ではない。例えば我々日本人は新モンゴロイドである。我々新モンゴロイドは極寒のシベリアで進化した種類である。極寒のシベリアでは吐息が凍るため、鼻腔が小さく凍りにくい形質を持つ個体が生き残った。上顎突出も鼻腔を縮めるためで、目が小さいのも凍結に対して有利に働くため。胴長短足なのは体の表面積を小さくするためである。体の表面積が小さいほうが体温が逃げず、極寒の土地でも生きながらえられたのである。そしてこれはこの内田貴洋の説なのだが、胴長で重心が低いのは我々新モンゴロイド(アルタイ語族)が遊牧騎馬民族だったからであろう。胴長で重心が低いほうが馬上での戦いには有利である。意外かもしれないが、西欧の白人も胴長短足である。但し彼らの大腿は細い。

 それとは全く反対なのは東アフリカのナイロティック系黒人種である。手足が長く、胴が短い。下顎突出で目が大きい。これは我々とは全く逆で、熱すぎる土地でいかにして熱を放出するかという点に特化した形質である。我々とは逆にこの地域の人種は体の表面積を大きくして、クーラー機能を充実させたほうが生存に有利だったのである。目が大きいのはより多くの情報を入手できるためなのか、あるいは性淘汰かはわからない。同じく下顎突出の原因も知らないが、気になる人は調べてみてくれ。

 さて、ここからが本番である。この内田貴洋は性懲りもなくまた中国に行ってきたのだが、そこでひとつの仮説を思いついた。

 それは、文化も自然選択、または性選択によって進化する、というものである。

 例えば日本人やドイツ人といえば、その文化の性質はとにかく几帳面でモノを作らせたら世界一である。これはなぜそのような文化になったのかというと、日本やドイツでは優れたモノを作れた人間が生き残れた、或いは同性間競争で有利になったから、つまり良いものを作れた奴がモテたから、である。反対に中国人は何を作らせても三流である。しかし、見た目だけはキッチリ作る。実際使ってみるとてんで駄目なわけだが、見た目だけはキッチリしている。つまり中華とは、ひたすら見た目だけを重視している文化なのである。見た目良ければすべて良し。とてつもない美人が沢山いて、3日に1回髪型をセットするほど見た目には気を使うが、この女達がケツをロクに拭かないなんてのはザラである。表だけはピカピカ、中はボロボロ。これは建物なんかでもそうである。とにかく見栄っ張りのハリボテ文化なのである。服屋と美容院が異常に多いのもこれで納得がいく。そういえば中国ではあまりひどいブサイクは見ない。中国は昔から都市型社会が発達していたため、生き残り淘汰よりも性淘汰のほうに文化が進化したのであろう。

 さてこのように様々な文化を検証していくと面白い。一体なぜ、そのような文化になったのか。その文化のおかれた自然環境や周辺民族との関連性、そこに自然選択と性選択を絡めて考えるとその文化の様々な側面が見えてくるのではなかろうか。

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