内田貴洋王国は死刑制度反対である。これまでこのブログを読んできた諸兄には意外に思う人が多々いるかもしれない。散々過激な事を言っておいて人権家気取りかよ、と。

 だが俺王国が死刑制度に反対なのは冤罪防止のためである。古来より施政者側は都合の悪い事実の隠蔽のために冤罪を着せ人々を殺してきた。最近の例で有名なのはソビエト連邦のスターリンの粛清であろう。また実際この私自身が散々冤罪で嫌な思いをしてきたというのも決定的な理由だ。死人に口無しとは本当に良く言ったもので冤罪で殺されてしまえば歴史はいくらでも修正できてしまう。

 第二に死ぬ程度で罪を償おうなんて甘いという考えがある。例えば人を殺したヤツが居るとする。こいつを死刑にして殺す。結果として残ったのは二人の死体だけであり何の生産性もない。誰も得しないのだ。これはLOSE-LOSEの関係である。施政者も含めてLOSE-LOSE-LOSEである。これでは意味がない。

 死刑の代わりに賠償をするのが俺王国の刑罰となる。具体的には人体実験に使われる代わりに報酬が被害者または遺族の元へ行くだとか、永遠と強制労働で死ぬ事も許されないだとかそういう類である。勿論ハンムラビ法典から脈々と受け継がれているシャリーアの中にある復讐法を取っても良い。自分で殺すなら死刑も認められる。以上内田貴洋の王国教示。

 コミュ障の根源は自分が偉いと思っている所にある。人に話しかけたりする時は自分が下手に出なければならないものだが自分が偉いと思っている人間はそれが出来ない。また会話の中で立場を弁えずに浮いた発言をするのも自分が偉いと思っているのが原因である。
 実力さえあればコミュニケーション能力はいらないと思っている人も多いだろうがそれにも限度がある。自分が偉いと思っている人と一緒に仕事や研究をしたがるヤツはいない。それは実際の行動に出るからだ。子供の世話をしたがるヤツはそうそういない。結果として本来の実力は発揮できない。
 ちなみにこのコミュ障という言葉、どうしても無口な人間を想像しがちだが実はそのタイプだけではない。例えば自分が偉いと思って調子こいていて実は友達ゼロのヤツとかもコミュ障である。具体的には若くして自分が美人とか思っている女全員コミュ障である。また自分からしか話が出来なくて人の話が聞けない老害も全員コミュ障である。
 尚日本の会社が休日とかもやたらと社員同士でツルませたがるのは上に行くほどコミュ障だからである。彼等はその性質ゆえに友達がいない。そこで会社の上下関係を利用して無理矢理人間関係を構築しようとする。ウゼェ・・・コミュ障が・・・

 健康管理は自分の精神と肉体の分離を認める所から始まる。自分の肉体を別物だと考えると必然的にケアするようになる。
 例えばあなたに子供が居たとして、その子供に熱があったり痙攣したり嘔吐したり足を引き摺って歩いていたらどうする?
 おそらく99%の人は容態を心配して病院に行かせたり、休ませたりするはずだ。これは自分とは別物の肉体だと完全に認識しているからである。
 ところが自分の肉体となると精神と分離させて考えられる人は半分、日本人は八割が分離させて考える事が出来ていない。だから身体に熱があっても痙攣してても嘔吐してても足を引き摺っていても「まあ、気分が悪くないから大丈夫だろう」と言った感じでそのまま放置してしまう。
 結果として病気になる。精神と肉体の感覚のズレに目を瞑るとこうなってしまう。
 自分の身体を精神と分離させて考える事が健康への第一歩である。

今我々がやるべき事は世代間もしくは階層間闘争であって、国家という縦軸を基とした闘争ではない。横軸を基に国家の枠組みを超えて戦うべきだ。そうしなければ未来はない。
特に日中韓(多分北朝鮮も)少子高齢化、そして経済の行き詰まりを迎えている。中国はまだ勢いがいいがあと10年で高齢化の余波が来る。この三カ国は政府によっていいように操られて愛国者となっているがそんなくだらない事からは目を覚ますべきである。(一番馬鹿が多いのは韓国)ぶっちゃけ老害共を全員海に捨てても良いくらいの過激な活動が必要だ。さもなくばヨーロッパの二の舞だろう。
そういえばロシア極東って高齢化はどうなんだろうな。

 鉄は熱いうちに打てとはよく言ったものだ。私はこの言葉を常に胸中に秘めているため、絶対にチャンスを逃さない。反対にこれが原因で私のことが苦手な人もいるのかもしれない。
 人と何か共同で物事をやろう、という時、その話が盛り上がった時に後々の事まで細かく決めておかないと、だいたいその話は流れてしまう。だから私は話が盛り上がったら隙を逃さずに話を詰めるようにしている。この時の相手の態度は次の二通りだ。
 1、ガンガン食いついてくる
 2、だんだん返事が遅くなり、最後は返事が来なくなる。
 2のパターンの場合、じゃあ返事を急かさないでゆっくり待っていれば話が成立したのかというと、そんなことは全くない。2の反応を見せる人はそもそも最初からやる気がないのである。
 同じ事が人生にも言える。自分が話題の人になった時、隙を逃さずどんどん注目を集めるようにする。また来年頑張ればいいや、とかおいしい話が来たけどまた今度、なんて考えていたら鉄(大衆)は冷えて、何の反応も示さなくなってしまう。
 また自分がミスした時や大事な人間関係を失った時も、すぐに謝ったりすぐに追いかけることが大事である。そうしなければやっぱり人間関係は冷めてしまい、うまくいかなくなるものである。
 鉄は熱いうちに打たなければダメである。

 私はムスリムであるが、無神論者的立場から合理的に物事を解釈するのが好きである。はっきり言って正統派からすれば邪道で、破門モノだろう。

 1神教が人間とその他をはっきりと区別するのは、砂漠で生まれた宗教だからである。砂漠では農作物はあまり取れず、牧畜に頼るしかない。しかし動物に人間と同じ「格」をいちいち認めていたら殺すことなんてとてもできなくなる。だから「人間は動物とははっきり別である。家畜は人間のために作られた」と教えるわけである。神が一つなのも同様の理由である。唯一神以外を認めていたら、動物や大地に神が出来てしまい殺生が行えなくなり、ベジタリアンになっていくのはインド発の宗教を見ればわかるであろう。ヒンドゥー、ジャイナ、仏教全部ベジタリアンである。

 さて話を本題にして、今回は豚食の禁である。ユダヤとイスラムはこれを禁止している。これにはいろんな合理的見方ができる。一番有名な説は寄生虫説であろう。次にサルモネラ菌。どちらも非常に説得力がある。続いて首がないから説、エロホルモン説などイスラムにしか見られない合理的解釈もある。

 で、最近面白いことが発見された。実はなんと「キリスト教も豚食は禁止していた」、ということである。が、しかしこの戒律は広まることなく封印された。理由はすでに西欧の大部分が基本豚食であり、反発が必至だったからである。最初は守ろうとしていたのだが、広まっていくにつれスルーされていったとか。

 話を戻そう。キリスト教側の新発見でユダヤ、イスラムの豚食の禁にも新しい説が出てきた。
 それは
 「ユダヤやイスラムは遊牧民だったから、定住し農作物で豚を
 飼育する農耕民族に対抗して、
 「あいつらの食ってるのは汚らわしい動物」ってことにしとかないと
いけなかったんでしょ。豚を認めることは文化の根幹を揺るがすことに
なるから。」
というものである。なかなか面白い説なので検証してみたいと思う。まず豚って農作物でしか育たないものなのか?豚を放牧していた民族とかいないのだろうか。

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