風呂で身体を洗うとき、洗う側と洗われる側、どちらの愉しみを意識するかによって、己の本質を知ることができる。
風呂で身体を洗うとき、洗う側と洗われる側、どちらの愉しみを意識するかによって、己の本質を知ることができる。
今回は短めに語ろう。
作り笑顔とは、いわゆるスマイルではない「営業スマイル」だと思っていただきたい。口元を緩めて、(あなたに敵意はありませんよ~)と意思表示するのがスマイルであって、これは自然と出てくる。
作り笑顔とは、わざわざ目や眉毛まで動かして固めて作るアレ。しかも思いっきり大げさに動かす。誰に対してでも同じ顔。それまで普通の顔だったのに、話しかけた途端に顔が変わる。これは気持ち悪い。そして、なんだか馬鹿にされている気分になってくる。
通常人間は、社会性動物なのであるから、人間のことが好きなはずである。人間が好きならば、人間と接していれば自然と笑みがこぼれる。よって人間好きな人は、わざわざ意識して笑顔を作る必要はない。反対に、人間嫌いな人は、人間を見ると嫌気が差すので、相手にそれを悟られないように、作り笑顔を固める必要がある。
同時に、作り笑顔を使う人種は、相手が作り笑顔に騙されると思っている。「どうせ営業スマイルしとけば、いいだろ。こっちの本心まで解りはしない。」というような一種相手を小ばかにした思想の持ち主でもある。人は愚かで、騙されやすいものだと思っている。だから人間嫌いになるのだが・・・。そして、こんなもので人が騙されると思っているということは、自信もこれで騙されてしまう程馬鹿なのである。
更に言うと、この手の人種は根底の部分で自信がなく自分の素で相手と接することが出来ない。だからいちいち表情を固めて相手とぶつかるのだ。一種のマニュアル人間だとも言える。だからこちらが予想しないリアクションをとると、対応できない。つまり、コミュニケーション能力が低いのだ。
彼らは、自分が馬鹿で、コミュニケーション能力が低いから世の中に対応できないくせに、自分自身を反省して謙虚になることがなく、世の中が悪いんだ!どうせ人間なんてこんなもんだよ。などと思ってしまうから、作り笑顔に走るわけである。なんと卑屈な人生か。
世の中話のつまらんヤツというのはいるもので、この手の人間と話していてもさっぱり楽しくないどころか、苦痛を感じるだけである。
たいていこのような人種の話というのは、客観性に欠けたオチのない自分の話ばかり。自己満の話を自分視点で語り、主観を通した感想を永遠と述べていくのが常である。
あるいは反対に、まったく自分から話をしないタイプの人間もいて、この人種の場合は常に目線が上。そして、人が自分に楽しい話をするのは当然などと考えていたりもする。かといって面白い突っ込みができるわけでもなく、ただ話を聞いてムカツク皮肉を言って終わるのが常である。
両者共に共通しているのは、サービス精神の欠如である。要するに、「お前、何様?」ということである。彼らは、自分が偉いと根拠のない自信を持っている。人が自分を相手にするのは当然だと思っている。
ところが現実はそうではない。人間社会というのは、それぞれ各個の意思で成り立っているのであり、自分に興味のない人間のほうが圧倒的多数で、更に自分に悪意のある人間すらいるのだ。もっと言うと、デフォルトの感情が悪意の人間もいる。要するに意地悪である。
このような人間社会で、自分との良好な関係を築いてくれる人材は貴重なのだ。つまり人間は、自分のことを相手にしてくれる人間には感謝するべきなのである。であるからして、我々は自分と話をしてくれる人間には感謝する。感謝するからこそ、相手にサービスをしようと思う。サービスしようと思うから、当然会話も楽しくしようと思う。相手を楽しませようと思う。
では文章冒頭に出てきた彼らはどうだろうか。彼らは、相手を楽しませようとはしない。何故なら、人間社会のことをわかっていないからである。人間社会のことがわからないのは、客観的視野に欠けるからであって、そのせいで自分の立場がわからない。そして客観的視野に欠けるから、もし相手に好かれようと思っても自己満話になってしまい、更に自分の立場が悪くなるという無限ループ。
この日記を見ているそこの貴方。常日頃、自分と話をしてくれている人に感謝していますか?楽しませようと思っていますか?今一度見直してみてはどうでしょうか。
人間は誰しもコンプレックスを一つや二つ持っているものである。そしてコンプレックスとは、その人間から理性を奪い、その人間の性情をむき出しにしてしまうものである。
誰もが一度は経験したことがあるであろう。くだらない冗談や自慢話をした途端に相手が目の色を変えて、まるで親の仇でもあるかのように罵倒してくるだとか、いつまでもしつこく言い寄られるだとか、反対に全く無視されだすだとか。
また一人の人物を見ていると、普段は紳士的なのに、ある話題になると急に横柄な態度になるだとか、妙に特定の人物を敵視したり、あるいは人にやたらとある物事を強制してくるだとか、これらの物事にはたいていコンプレックスが関わってきているのである。
一例を紹介しよう。ここに紹介されるのは非常に代表的であり、また私がよく経験するものである。
・学歴コンプレックスがある人
主に低学歴な人に多い。人の出身学校を聞いた途端に、態度が豹変して罵倒しはじめる。特に東大の人はこれをよく言われるため、自ら東大とは言いたがらない。低学歴の最大の悪はこのコンプレックスだと思う。これさえなければ低学歴であろうとそこまで馬鹿にされないであろう。尤も別に学歴がないことは恥じることではない。現在どうあるかこそが最も大事であり、学歴がなくても一芸に秀でてればそれで良いのである。
・恋愛コンプレックスがある人。
過去にモテなかった人。こういう人の前でナンパ話やネタ的な過去の恋愛話とかをすると、妙に敵視してくる。たいていこういうタイプは、自分が真面目ぶってチャラついてるヤツは最低だとかほざいたりする。が、実は自分が失った青春を取り戻してモテまくりたいと思っているので、陰では浮気しまくる。立場を利用してセクハラしまくるのはたいていこのタイプ。押しなべてキャバクラが好きなのも特徴。女の場合はヤリマン化する。
・暴力コンプレックスがある人。
過去にいじめられていた人。こういう人に少しでもワル的要素を見せると、けっこうしつこい嫌がらせに合う。彼らの脳内では、DQNと一般人という完全な線引きが存在し、一度DQN認定されてしまうともう元には戻れない。
・金銭的コンプレックスがある人。
過去に貧乏だった人。実は金で苦労した人間は金に汚くなる。いちいちみみっちい。そして、金持ちが金を出すのは当たり前だと思っている。金にならないことはすべてカスとまで言い出す。拝金主義。人生の目的を見失っている。親が金持ちな人をやたらと批判する。親のスネかじりが!という台詞をよく吐く。
・度胸コンプレックスの人。
度胸がない人。いとも簡単に物事を成し遂げてしまう人や、危険にためらいもなく踏み込む人に嫉妬する。そんなに嫉妬するなら自分もやればいいのに、そんな度胸がないので、彼らの生活はいつまでたっても変わらないのである。で、度胸のある人をアホだとか馬鹿だとか言う。ただの負け惜しみである。
以上、代表的な例を出してみた。いずれの例も、彼らが他人に対して向ける敵意は異常であり、およそ普段からは想像も付かないような罵詈雑言や、タチの悪さを見せ付けてくれる。コンプレックスとは、人の本性をむき出しにしてくれるものなのである。それは、嫉妬という名の悪、人間の最も醜い感情の一つである。
さて、そんな私は何コンプレックスなのであろうか。おそらく私も自分では気づかないうちに、人に対して罵詈雑言を浴びせたりしているのであろう。何か気が付くことがあったら伝えてほしい。
こちらが話をしているのに、まるであさっての方向から意見を飛ばしてくる人、うまいこと言おうとしてるのですが、こちらのひとつの単語しか拾っていないので、論点が全然ズレている答えを返してくる人、最初から人の話をさえぎって話をする人。
一言で言ってしまえば、自己中、になるのですが、もう少し深く考えてみましょう。何故彼らはこのように人の話を聞けないのか。分類してみました。
A:人の話を聞かないタイプ
人を最初から見下している、あるいは最初から他人を理解する必要などないと考えているタイプです。
例
「あのさ、君はもう少し他のものを見たほうがいいと思うよ。」
「家族計画は最高ですお。」
「・・・・」
B:人の話を聞けないタイプ
頭の回転が悪い、あるいは人間としてのバイタリティーが低いため、他人の話の一部しか理解できない、あるいは単語しか拾えないタイプです。
例
「いやー会社の車が糞すぎてさーあれさー。」
「そんなに家の車が気に入らないなら自分で買え。」
「いや、会社の車の話してんだけど。」
C:自己顕示欲が強いタイプ
人の話を聞いていると、対抗して似たような話を出してくるタイプです。しかもオチがない。要するに、お前より俺のほうがすごいんだぞ、と言いたいだけの人。
例
「○○さんって人がいてさー、その人が酔っ払うとタチ悪くてね。」
「そういえば僕の友達に○○というのがいて、そいつが・・」
「へ、へー。」
D:自分中心でしか話ができないタイプ
自分が会話の中心そして自分の会話の組み立てプランというのがあって、その通りに実行しなければ気がすまないタイプ。このタイプは話が脱線すると超強引に元に戻そうとします。
例
「以上を見てわかるように配色がいかに大事かってことだよ」
「なるほど。そういえば見やすいなーそういえば見やすいといえばこれなんだけど、これは音が・・・」
「で、こういうふうにコントラストがついていると・・・」
ちなみに私は若干Dが入っています。
さてここからが本題なのですが、人間は他人の話を聞いて自分の知識として記憶し、そこから自分で新たな考えを作り出すという作業を常々行っています。
この作業こそが人の知能を常にレベルアップさせてくれる重大な知性の鍛錬、吸収ー反芻ー昇華という大切な脳のトレーニングなのです。
ところが世の中にはこの作業を途中で放棄してしまう人達がいます。若くて15歳から、そして60過ぎると80%以上の人間がこの作業をやめてしまいます。この作業をやめたとき、それこそがアルツハイマーの始まる時なのです。
皆さんも周りを見渡してみてください。人の話を聞かない人は若くても同じ話ばかりしています。しかも、学習能力すら失っているので誰かが諌めても全く直りません。さらにはこの手の人たちはイエスマンとしか付き合えないので、誰も反論することなく、永遠と同じ話をしまくります。よってアルツハイマーはどんどん加速することになります。
皆さんも気をつけましょう。
昔から海に行くと夜は花火をするのが定番、ということになっているからやっているのだろうか。
だとしたらそれは愚かな遊びである。
まるでそれは、クラブとくればナンパだろ、と音楽も聴かずに女を追いかけまくった挙句、誰も引っ掛からずに結局疲れて帰るくらい愚かである。
まるでそれは、上流階級と言えばミッション系だろ、とクリスチャンでもないのにミッション系学校に通い賛美歌を歌いながらダリィと思うくらい愚かである。
まるでそれは、峠と言えば膝擦りだろ、と無理膝でコーナーを曲がっていたら、アウトから原付に抜かれるくらい愚かである。
まるでそれは、スーツと言えばイタリア製だろ、と実は縫製が中国であるグッチを買って自慢するくらい愚かである。
まるでそれは、カレーと言えばインドだろ、とインド料理店に入り、ビーフカレーを頼んで、無いよ、と言われるくらい愚かである。
その昔、ゼミの合宿で伊豆に行った。石廊崎の傍の実にいい浜辺だ。ところがゼミの後輩どもは、昼から酒を飲んでロッヂで宴会、夜は砂浜で花火。なんのために伊豆まで来たのかさっぱりわからなくなるのが嫌なので俺は連中を無視して海に遊びに行っていたのである。
最後の夜だった。後輩の一人が、絶対花火をやろうとしない俺に無理やりライターを渡し、打ち上げ花火の導火線に火を付けるように言った。彼なりに、俺のための見せ場を用意したつもりだったのだろう。俺はそれがわかったから、しょうがなく火を着けた。導火線に火を着けると、大きな火の玉が3つ上がった。後輩達はそれを見て、綺麗だとかなんとか言って盛り上がっていたが、俺はちっとも楽しくなかった。
夜の海に来たら、
波の音を聞きたい。うるさい花火の音なんて聞きたくない。
星空を見たい。火花なんて溶接工場で見てればいい。
冷たい砂を肌に感じたい。火の熱さは料理で沢山だ。
潮風を嗅ぎたい。硫黄っぽい煙の匂いなど嗅ぎたくない。
花火は夜の海が持つ要素すべてを台無しにしてしまう。一体なぜ彼らはそんな野暮なことに熱中するのだろうか。風流を楽しむ心が欠落しているのだろうか。全く理解に苦しむ人種である。海で花火をやる人間の心理は未だに理解できない。