戦争の歴史を紐解くと、青銅器から鉄器の時代、歩兵戦術から騎兵集団戦術、騎兵集団戦術から散兵戦術の時代と様々な転換期があった事がわかる。そして相手をどの地点で叩くかというのがポイントとなり、相手が陣形展開する前に攻撃する事を重視したために戦場が陸―海―空と移り変わった。現代戦では制空権を確保する事が最重要項目である。

 だが実は完全なる空の戦いというのは距離が近くないと不可能であり、太平洋、大西洋に面した国の殆どは航空母艦をベースとした戦術を取るのが実情である。言うまでもなく航空母艦は艦と名前がついている通り、海の道具である。上に挙げたセオリー、すなわち敵が陣形展開する前に敵を攻撃するという法則に基づくと、この航空母艦が出航した直後にこれを沈めてしまえば自軍の損害はほぼゼロで敵に大損害を与えることが出来る。制空権の確保も容易になる。

 さてそこでこの内田貴洋が考えるのは潜水艦防衛システムである。海の中というのはまだまだ未知の領域で、今後重要視される戦域である。世界で最も神に近い内田貴洋はこの重要性をいち早く見抜いていた。

 そこで俺王国の潜水艦防衛は以下のように行う。
・ 航空母艦ならぬ潜水艦母艦の建造
この潜水艦母艦は戦闘潜水艦、輸送潜水艦、機雷艦の母艦となり、自らが浮上する事はメンテナンスの時以外ない。食料や物資、人員の補充は付属する補充艦が行う。内部には圧力弁を備えたドッグがあり、ここから様々な潜水艦が出航していく。
・ 戦闘潜水艦の建造
 航空機の戦闘機と同じである。単座または複座で、潜水艦同士の戦闘に特化している。敵の駆逐艦、巡洋艦、空母に攻撃を行うのもこれである。
・ 機雷艦
これは航空機で言うと爆撃機にあたる。機雷をばら撒く事と、その回収が主な任務である。

これらの潜水艦達に、対地対空ミサイルを備えた従来の潜水艦を加えたものを1チームとし、世界中の海に潜らせておく。こうする事によって敵(主にアメリカ、中国、ロシア)の部隊が出動する前にそれを叩いて沈めてしまう。以上内田貴洋の世界で最も進んだ国防論。

イスラム文化が嫌われる理由の一つに、どこでもかしこでもアラビア半島風の建築物を作り、風景を台無しにしてしまうというのがある。そこで内田派のモスクはなるべく現地の建築様式に合わせたものにする。
日本でも幸福の科学などが周りの景観に全く考慮していない宗教施設を作ったりしているが、ああいうのが顰蹙の元である。周りが近代的な和洋折衷な建築なら、同じような造りのモスクを作ればいいだけの話である。
この際、ミナレットはなるべく目立たないように設計される。また合理性を重んじる内田派ではオドの際にどうせなら全身洗ってしまえ、という事でモスクにスパが併設される。オドの際に湯船に浸かる事によって内田派のムスリムはより強い一体感を得る事が出来る。このスパは喜捨によって運営され、また食いっぱぐれ達はこのモスクの清掃及びスパの清掃、運営によって日々の糧を得る。
 マスジトの床が絨毯だというのも合理的ではない。高温多湿の国では病原菌主に水虫の巣窟になってしまうし、実際足臭いモスクが多い。せっかくオドで身体を清めたのに礼拝中に汚れてしまってはオドの意味がなくなる。
 よって日本ならば畳、ヨーロッパならばタイル、砂漠地帯では絨毯、とフレキシブルに対応していくべきである。

イスラム教内田派

 内田派は前衛的、先鋭的イスラムを目指すモスリムの集団によって形成された派閥である。内田派の最大の特徴は、無神論者的視点による結果論から、信仰の正統性及び法解釈を導き出す所である。社会学と密接な関係がある派閥でもある。

 合意、ワクフが特徴であるファナフィー学派と共通するような特徴であるが、ファナフィー学派がスンニであるのに対し、内田派はスンニでもシーアでもない、ハワーリジュ的な側面を持つ。ある一定の条件に対してファナフィーは非常に緩やかであるが、内田派は厳しい。また、その逆も然りである。

 内田派はこれまでのモスリムの敗北を教訓とし、何よりも武装を最優先する。例えそれがイスラム的に芳しくない事柄でも、勝利のためなら武装が優先される。例えば進化論である。伝統的イスラムの見地に立ち返るなら、これは否定するべきである。しかしこれを否定してテクノロジーの発展に追い付けず、ユダヤやプロテスタントに打ち滅ぼされてしまっては何の意味もない。悪貨が良貨を駆逐するのがこの世の常である。しかしそんなことを容認していたら人類の未来はなくなる。我々が種として存在しえる以上、我々にはこの種の繁栄を望む義務がある。

 内田派は他の宗教や他の神を否定しない。アラーが真理であることに揺るぎはないのであるから、単に他の宗教の人達は気付いてない人と認識する。彼らは彼らの人生である。真理に気付いてないからといってそれを強要したり教えてやる必要はない。愚かな人生を送って勝手に死ね、という事である。この辺がハワーリジュ思想に似ている。教義というのはあくまで自分で気付くことが大事なのである。子供の教育と同じである。本人が明確な目的意識を持って臨まない限り、身に付かないし意味がないのである。

 内田派はスポーツ、武道などで肉体と精神の融合を追及し、その過程でアラーの存在を体感する事を推奨しているスーフィズムの側面を持つ。己の肉体は己の精神で完璧にコントロール出来る事はありえない事を学び、そこにアラーの存在を見出す。このような教義を持っているため、他宗派と違い女性のスポーツ、また競技会は推奨される。

 
 さてこのブログ、今まで散々女の「盛られた価値」についてその嘘を暴き、事実を叩きつけてきたわけであるが、女にしか出来ない事、女のほうが男より優れている事の一つとしてこの差別問題を取り上げたい。この内田貴洋は世の中で散々謡われている様々な女の特性例えば「女の情」「女の愛」「女の心遣い」といったものに対してすべて男のほうが優れている、と常々主張している。だがしかし女のほうが優れている分野も多々あるわけで、そのひとつがこの差別問題である。

 差別をいかにして解消するか。これは太古の昔から様々な試行錯誤が為されてきた。最も効果的なのは混血であり、有名な実践者としてアレクサンドロス大王が挙げられる。大王は征服下でギリシャ人入植者とペルシャ人、エジプト人がいざこざを起こす事を危惧し、自分の部下達に異人の嫁を娶るように、と命令した。様々な不平不満があったものの、結果としてオリエント世界は一つになった。差別を無くすのは愛なのである。

 世界は人種や階層の他に、男と女という最も大きな種族の差がある。人種や階層が違えど、男同士の共感というものは女が思っているそれよりずっと強い。そして現実問題としてこの世は男社会であり、女がそれに手を加える事は出来ない。結局男が中心になって世界が回っている以上、女がどうわめこうが無駄なのである。集団を評価するのは結局男であるからだ。

 そして世界共通の男の共感にエロと貞淑を求める心がある。一見矛盾しているように見えるが実は矛盾していない。エロというのは行為のエロではないからだ。例えば多人種の男の集まりがあったとする。そこでどこの女がホットでセクシーか、といったような話題が必ず挙がる。この時男達の間に人種差別など存在しない。とにかくセクシーであればOKだ。セクシーな女が多い人種ほど存在感が増し、そうでない人種は皆の記憶から消えていく。これは階層に置き換えても同じである。つまり女がセクシーたることによってそのグループの認証度が上がっていくわけだ。

 同じ事が貞淑さを求める心にも言えている。世界を制したアングロサクソンでも女がビッチだらけであれば男からの評価はどんどん落ちていく。これは同じアングロの男からも落ちていく。事実アメリカではアングロの男はアングロの女を選ばずに他から嫁を娶る傾向にある。また、東南アジアや南部アフリカの女の評価が低いのは売春婦が多いせいである。これは男から見たらたまったものではない。いくら真面目にしていようが売春民族の一員、という目で見られてしまうのだ。この煽りを最も食らっているのは中国人だろう。中国人の女が身勝手に世界中で売春をする事によって、中国の男は三流民族のレッテルを貼られてしまっているのだ。つまり女が貞淑でないとそのグループはマイナスのイメージを植えつけられてしまう、という事だ。

 個々の女が身勝手に自分の欲望のままに食べるのをやめてセクシーになるように努力すればその集団の認知度が上がり、個々の女が身勝手に己の欲のまま楽をしようと売春や多数交際をやめればその集団の評価が下がることはない、という事である。男にその集団を武力的に守る義務が課せられているのと同じように、女にはその集団の評価を守る義務がある。以上内田貴洋の久しぶりの啓示。

 内田貴洋王国は基本的に芸能人というものを認めていない。何故ならどこの国でも芸能というものは売春の巣窟になるからである。女ならスポンサーに枕営業、男も同じ。しかも男の場合はゲイ売春の懸念もある。或いはゲイコミュニティーが出来上がりマイノリティーとして団結力を持ち、業界を牛耳るなんて事もある。実はこのゲイ問題は日本よりも諸外国のほうが根深い問題となっている。また、芸能人そのものが個人崇拝の側面を持っている。人々は芸能人をまるで神のように扱い、自分との間に上下関係を作る。しまいには「誰が言っているか」が「何を言っているか」より重要になってしまう。

 このような傾向はイスラムの精神と大きく離れているばかりか、男も女も売春の生き方に憧れるようになってしまう。現に先進諸国の歌手やアイドルなどは服装が売春婦、男娼。生き方も売春婦、男娼そのものである。またアメリカの音楽シーンを見てわかる通り、デビュー当時は普通にしていても次第に売れないからという事で目立つためにどんどん売春的行為に手を染めていく。そして人々はそれを模倣し、結果として人生を失敗させる。

 このような事はあってはならない。商業主義のメディアと売れれば何でもありという売春産業を押さえ込むために、内田貴洋王国ではアイドル商売、ドラマ、映画などは一切放映させない。許可される娯楽はCG制かアニメーションのみである。よって芸能界というものは存在しない。また芸能界が発達すると国民が三流ゴシップしか見なくなり、ニュースを見なくなる。芸能界の発達と国民の知能は反比例する。よって内田貴洋王国は芸能人を認めない。

 尚、ミュージシャンはメディアに出る事が出来るが、顔を見せていいのは男だけである。女のミュージシャンは顔及び肌を露出してはならない。女はいくら才能があろうと顔の良し悪しで評価されてしまうからである。これは何も男からだけではない。むしろ女のほうが女を外見で評価する。そして女達は実力で勝負する事を辞め、見た目ばかり競うようになる。レバノンの女のミュージシャンを見ていればわかるだろう。音楽については次回詳しく述べる。

 日本を代表する習慣に敬語が上げられる。日本の敬語は外国の丁寧語、尊敬語とは違い、年齢とセットなのがミソである。相手が自分より年上か年下かで立ち位置が固定されると共に、敬語でその位置関係を常に確認させられる所にその特徴がある。大抵の自称愛国主義者に言わせると、これは日本の良い文化なのであるが果たしてそうであろうか。

 老人を敬うという習慣は実は世界中にあって、敬語に相当するものも世界中に存在する。人間社会では長く生きているほうに権力が集まるのは当たり前であって、必然的に人間崇拝、権威主義が生まれる。これはどんな社会でも見られる構図である。事実ロスチャイルド家のマナーブックには「西欧社会と違いアフリカやアジアでは老人は敬われるものだから注意しなさい」という記述まである。

 果たしてこれが良い事であるかと言うとそうではない。既得権益が出来上がって老害が発生するただの悪循環構造の形成にしか繋がらない。この構造悪をいち早く見抜いたのは砂漠発祥の一神教である。激動の中東発祥のこれらの宗教達は何よりも戦闘のための団結を最重要視する。変な上下関係など戦闘のための団結の障害でしかない。よってユダヤ、キリスト、イスラム共に「唯一神の名の下の平等」を説いて老人を敬う事や年上権威主義を封じ込めている。

 つまり実は敬語や年上崇拝を封じている状況こそが人間によってストイックに社会が保たれている状況であり、年功序列なんてものはただの社会の堕落なのである。実際、日本から敬語や年上崇拝が消えれば日本人はもっと纏まる事が出来るだろう。団結を妨げているのは敬語及び年功序列主義である。後輩が先輩を追い抜く事なんてありえない、という社会である以上、実力者が上に立って指揮を執るなんてのも夢のまた夢である。また下の者が上の者を追い抜く事が許されていないから、下の者はいつまで経っても上の者より精進する事はなく、全体としても進歩しないのである。

 但し、この理論を以ってしても説明できない土地がある。それはお隣の国中国である。なんと中国は敬語どころか軍隊用語すら「是」(Roger)くらいしか存在しない。それ以外は全くの実力主義なのである。儒教発祥の地であるが実際は道教の国であり、世界で最初の農民政権が誕生したのも中国である。易姓革命もしょっちゅうで、権威主義など全くない。むしろヨーロッパの貴族制やイスラムのカリフ制のほうがよっぽど権威主義的である。中国は変な国である

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