俺王国は多民族混血主義政策を採る。最強かつ最高に美しい人種の創造を目指す。

 多民族国家には差別や階層固定などの問題が付き物だが、ほとんどの国でそれが失敗しているのは、それらの国が多民族、多国間言語を使用しているからである。
同じ言葉を喋っているのに国家が違う、民族が違うという環境に彼らは慣れてしまっている。なので同じ言語を使用していても、自分達とは別物だという意識が生まれてしまうのである。

 俺王国はベースが日本語である。ここで日本の現状を見てみよう。私は日本育ちで日本語しか喋れない黒人白人ペルシャ人インド人など様々な人を見てきたが、概ね彼らは日本人であると言える。
仮に育ちが日本じゃなかったとしても、日本語を喋る白人黒人その他には親近感が湧き、自然と日本人と同じように接することが出来る。
逆に日系の血でも、日本語が喋れない、または流暢ではない人達はかなり遠い存在だと感じる。日系アメリカ人、日系ブラジル人、中国残留孤児など、はっきり言ってただの外人である。
見た目が似てるのに日本語を話せない日本国籍を持つ中国人、朝鮮人、モンゴル人、シベリアの人々、台湾人などは明らかに異質な存在として扱う。
そこに同じ白人だから、だとか同じ黒人だから、だとか同じ東アジア人だから、なんていう視点は存在しえない。私からすると異言語を話す人種を同胞として扱うヨーロピアンや黒人の感覚こそ理解できない。
これは私が単一民族言語で育っていて、彼らは多民族、多国家言語で育っているからである。

 俺王国も代を重ねるごとに民族が違うという環境に慣れていって、差別や階層固定が現れるのではないか、という疑問が湧くだろうが、それは無用な心配である。
マイナー言語かつ日本語の持つ特殊性、すなわち一言で色んなモノを表せるこのノリこそが、日本人を日本人たらしめているものである。
日本語は他のどんな言語とも互換性がない。文法が近いのは朝鮮語であるが、朝鮮語は語彙が全く別物なのでやはり互換性がない。
同じ文字を使う中国語は表意文字で、発音の発想が表音文字とは全く異なるのでこれもありえない。そしてこの二つの言語には創造性がない。
ノーベル科学賞を受賞したどこかの教授が言うには、自分達の言語でモノを考えることこそが、他にはない発想を産み、日本語というのはこの点で非常に優れているのだそうだ。

 日本語の特殊性を理解しやすいのはコメディー、コント、漫才、落語、漫画等であろう。他の国のそれらとは全く異質なのである。
つまり俺王国が言語に日本語を使う限り、多民族主義が失敗することはない。自分達の言語が他と異質であると理解している限り、俺王国の民は俺王国民だと自覚する。
もっと言うと急進的イスラム教徒で、日本語を使うのが俺王国民なのである。この価値観のオリジナリティーはなかなか崩せない。

 同じようなマイナー言語でタイ語、ビルマ語など色んな言語があるが、どれも実は多民族言語である。純粋だったのは満州語などだろうが、今はもう消滅してしまっている。

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