価格競争、業界にとって最も忌むべきものである。価格競争が始まるとまず落としやすい人件費からコストダウンを図る。企業間、商店間はまず人的体力勝負を強いられる。疲弊した人材はいつかはパンクする。

 次に行われるのはクオリティーを低下させることによるコストダウンである。工程を省いたり、用いる材料の量や質を落とすことによって値段を落とす。結果として徐々に商材の価値が落ちていく。

 最終的には取り込み詐欺、計画倒産を行う企業、業者が出てくる。過酷な価格競争で失った利潤を短期的に回収し、もうその業界からは撤退してしまおうという戦略である。

 価格競争は消費者にとって、短期的利益をもたらすが、長期的に見ると消費者も損をするのである。商材やサービスの質が低下し、信頼性も低くなる。良いことなどひとつもないのだ。

 だがいつの時代もダンピング業者というのはいるもので、必ず価格競争を開始する馬鹿がいる。これは売春や泥棒と同じで人間社会に必ず現れる人災の一つである。

 大手家電量販店などで、他店よりも高ければ申しつけ下さい、などと言ってチラシの表示価格競争を盛んにやっているが、あれは実に愚かな競争である。このような事を始めたのは新宿発のカメラ業者と、茨城発の郊外型大型店舗である。

 昔からこの価格競争の愚かさを知っていた秋葉の家電屋などは値切り文化を採用し、表だって競争することを避けることで、自分達の利益を守ってきた。値切り文化とは価格競争からうまく逃げるためのツールだったのである。消費者と業者、お互いの利益を守るための必須手段だったのである。

 しかし愚かな一部の業者と、目先の利益に飛びつく愚かな消費者によってこの値切り文化は失われ、価格競争が表面化してしまった。今やいろんな業界でこの価格競争が起きている。そしてそれは世界的なムーブメントとなってしまっている。いわゆる資本主義の終焉の要因のひとつである。

イスラムは国際宗教になりうるか。答えはノーである。

 現在イスラムの主流になっているのはスンニ派であり、スンニとは、慣習という意味である。預言者ムハンマドは後世に記録を残さなかったため、さまざまな派閥が生まれた。その中で、クルァーンと照らし合わせて不明な事項を判断する際に伝統的な慣習に従うとしたのがスンニである。

 しかし、ここで注意するべきことは、これはあくまで「アラブ人の」慣習であるということだ。よってスンニとはアラブ人至上主義であり、民族主義の一面を備えていることになる。スンニ派になれ、ということはアラブ人になれ、ということと同義なのである。

 例えばイランで栄えているシーアの12イマーム派と、厳格なスンニのワッハーブ派では礼拝の時間が異なる。スンニでは一日5回の礼拝が義務となっているが、第一回目と第四回目の礼拝はそれぞれ、日の出前、日没の間となっている。これはアラビア半島及び同じ緯度付近にある地域では問題ないが、白夜のある北欧ではどうなるのだろうか。日の出も日没もない。白夜までいかなくても、ある一定以上の緯度になると、夏と冬の日照時間がかなり異なる。これでは活動時間に大きなズレを生じてしまうことになる。

 このような無理な要求をされても、現実的に不可能なのである。その証拠として、イスラムが普及しているのは熱帯、亜熱帯の日照時間に変化の少ない地域に限られている。もともとイスラムは生活に根差した現実的な宗教のはずである。だが、スンニが盲目的にスンニこそ正統であると主張し続ける限り、真の共同体であるウンマの形成には至らない。

 事実、スンニの人にシーアやイバードの話をすると、感情的に否定する。そして最後には「スンニが一番正しい」と言うのである。そこで根拠を求めても、具体的な回答は出てこない。このような感情的な否定は、裏を返せば潜在的にシーアを恐れているということである。

 テロ組織は圧倒的にスンニが多い。シーアで目立つのはヒズボラくらいであるが、それもシオニストに反抗しているだけであって、スンニに反抗しているわけではない。一方スンニはシーアのモスクを破壊するテロをほぼ毎日のように行っている。ここにプアホワイトが作り出したKKKやモルモンと同じレイシズムを感じ取ることが出来る。

 スンニのシーア警戒は相当なもので、アラブ諸国はこぞってイランを無視している。これは12イマーム派の輸出を防ぐためである。12イマーム派を認めてしまうと、アラブ人の優位性が揺らぐからである。預言者の志に従うなら、このようなアラブ至上主義はイスラムの精神とは大きく反することになるのである。

 ではシーア派ならば、世界宗教たりうるかというと、これも答えはノーである。シーア派はアリーの血統しか認めていないため、事実上非常に政治色が強くなってしまう。また、イマームにクルァーンの解釈を変える権限が集中しているため、一歩間違えただけでたちまちカルト化する。よってシーアも適切ではない。

 期待できるのはイバード派と、残っているハワーリジュ各派である。どちらにせよ、新たな改革者が現れない限りイスラムが世界宗教になることはない。

ルカ15章ー25~32節

放蕩息子の弟とまじめな兄

この例えでは、二人の兄弟が出てくる。


良い行動
社会の模範生
出世する
名誉がある
地位がある


ふしだらな生活
暴飲暴食
飲む
打つ
買う
異性関係が滅茶苦茶

だが、この兄弟のうち、神に救われたのは弟であり、兄は救われなかったという例え話がなされている。その理由は、兄は神に懺悔せず、弟は懺悔したからである。いかにも慈愛の宗教、キリスト教らしい発想だと言えよう。

怒りの宗教イスラムではこうはいかない。弟は公衆の面前で公開処刑である。と、まあここは話の本筋から外れるので置いておくことにする。

誰が聞いてもこれは納得のいかない話である。善行を行った人間が救われず、悪行の人間が救われる、これでは悪人天国ではないか。世界は滅茶苦茶になる!と考えるのが普通である。しかしちょっと待ってほしい。

超無神論者の立場から考えると、これは実にすばらしい人間監視システムである。罪が許されないと知ったら、悪人は嘘をつく。自分の悪行を自ら喋ることはない。しかし、悪行を積んでいても懺悔すれば救われる、と教え込めば、少なくともイエスに嘘をつくことはない。(現在では教会の神父、牧師がイエスの役割を果たす。)

こうすることによって、人間の悪行のうち最も厄介な嘘というものを封じることが出来る。つまりイエスは自分ないし司祭たりうる人間が、人を徹底管理できるシステムを作ろうとしていたのではないか、という仮説が成り立つのだ。

預言者ムハンマドもこんなことを言っている。
「ムスリムは酒も飲むし、泥棒もするし、不倫もする。だが嘘はつかない。」

いつの時代も、嘘というのが一番の罪である。

 今回は俺王国の農業について語る。

 俺王国は農業重視政策を取る。なぜなら自給率が低い国家は国家とは言えないという理論が根底にあるからだ。自給率が低い国家は金銭で他国から食料品を買っている。そしてその貨幣価値を保証しているのは軍事である。極論を言うと、軍事力がないことが証明された場合インフレになり、為替相場は急下落。あっという間にピンチに陥る。

 サバイバル生活をしてみるとわかるのだが、食料が常にあるというのは幸福度にかなりプラスに働く。この内田貴洋が目指す社会は「誰もが幸せになる権利を平等に有する社会」であるのだから、食料危機などあってはならない。そこで農業を重視する。

 しかし内田貴洋王国の特徴的な所は、海産資源も農業の範疇に入れる点である。農家が土地を買ったり借りたりして農作物を作るように、漁師もまた海を買ったり借りたりして海産資源を作らなければならない。具体的には以下の三通りである。

1海中農業

 海上農家は政府から海のある部分を租借もしくは買い上げる等して、海中にブイとロープで固定された棚田のようなものを作り、品種改良したてんぐさや昆布等を栽培する。もしくは貝類でも良い。これらの製品はファイバーの原料として健康大国である我が国では重宝される。土地の私有は認められ、ブイで区切られた範囲に他人が侵入することは不法侵入罪となる。

2海中牧畜

 主に居つきの魚を養殖するものである。これも海中農業と同様、政府から海のある部分を租借もしくは買い上げるかして行う。海草が育つ成分を配合した巨大な人工漁礁を等間隔に並べて、海中の生態系をいじくってしまうのである。対象となる魚は稚魚から育てて海に離しても良いし、自然に任せて放任でも良い。根魚、伊勢海老等が主な生産物となる。土地の私有は認められ、ブイで区切られた範囲に他人が侵入することは不法侵入罪となる。

3遠洋漁業

 なんと民間では禁止である。政府しか行うことが出来ない。
 

 何事も元手がかからずに、儲け幅が多い商売というのはマフィア化する。日本の漁師がそうであるように、自然物を人間が奪い合うというのは必ず争いの火種になる。争いのある所には暴力があり、政府以外の軍事力を持った集団が出来てしまうことになる。だから内田貴洋王国では元手のかからない自然物という概念をまず消してしまうのである。それぞれの海にある海産物は、それぞれの個人が作った作品なのである。

 以上内田貴洋の海中の楽園。

 今回は内田貴洋王国の政治システムについて述べる。内田貴洋王国はイスラム原理主義の政教一致を原則とする。但し、ウラマーによってクルァーンの解釈を変えることは認められている。つまり宗教的権威と政治的権威は一致してるものの、ワッハーブ派のような原点回帰運動とは間逆のベクトルを突き進む。進歩的イスラム、好戦的イスラム、合理的イスラムを目指すのである。

 前に述べた通り、内田貴洋王国はクラスE取得者が得票権を持つ、議会制の国である。しかし民主主義ではない。君主制の国家である。法案や政策の立案は国王しか行うことができない。そしてこれを議会に通し、全議員が肯定しない限り、この立案が通ることはない。つまり一人でも反対すればアウトなのである。議員達は優れた政治家であり、ウラマーである。個々がどのような理由で反対なのかをきちんと名言し、反対の意思を表明すればその立案は通らない。

 このシステムは民主主義の時間がかかりすぎる欠点と、衆愚政治になる欠点を補い、君主制の迷走する欠点と独裁政権になる欠点を補うものである。尚、議員達は私生活で自分が議員であるとバラしてはならない。これは贈賄を防ぐと共に、反対者暗殺といった弊害を避けるためでもある。そして特定のグループが自分たちの利益ばかり追い求めて国をつぶすことも防ぐことが出来る。なぜならお互いに誰なのかわからないからだ。

 議会はPC大好きな内田貴洋らしく、掲示板方式で24時間稼動される。こうすることによってより正確な議論が出来る。ソースの引用も簡単である。また、某国のように国会で寝てる議員などといった税金の無駄遣いをすることもない。未解決の議題もどんどん溜まっていくことになる。この内田貴洋は時間がないからこれで終わり!といった妥協が大嫌いなのだ。

 今回は俺王国の交通事情について述べる。

 内田貴洋王国は地上は車、バイク、であり、人間は地下である。混合交通は渋滞しか生み出さないのでこの規定となっている。地上で車に歩行者が撥ねられた場合、歩行者に人身は適用されず、車と同じ扱いになるという事である。各都市はエリアごとに四角く区分けされ、高層エリアほど都市の中心部、郊外に行けば行くほど低層エリアとなる。上から見ると丁度回の字のように区分けされる。

 この内田貴洋は空が見える事や日照にこだわるので、どんな大都市でも4階以上の高層階はありえない。しかし地下にならいくらでも伸ばす事ができる。また、地下には人間用の交通網が発達しており、ここはどんな時でも冷暖房完備で快適である。但し害虫の蔓延を阻止するために、地下街に飲食店及び住居を作ってはならないという取り決めがある。

 これ以上は都市計画の話になってしまうので、交通事情に話を戻そう。

 この内田貴洋は都市の設計はコンパクトであればあるほど良いとしている。当然交通も省スペースを要求される。都市の中心部に一般の車が進入することはできない。二輪とミニカーのみ、都市の中心部に入ることができる。このミニカーが独特で、要はスリックカートに外装をつけたものだと考えて頂きたい。

 ミニカーには二種類あり、CVT(プーリー駆動)の車ベースとミッション形式のバギーベースがある。それぞれAT MTミニカーと仮名を付ける。両者の差を明記する。

ATミニカー
・免許は四輪
・車体の剛性の規定が厳しい
・シートベルト着用が義務
・外装はバーで覆われている必要がある
・フェンダー必須
・安全性や利便性を重視

MTミニカー
・免許は二輪
・車体の剛性の規定は緩い
・ヘルメット着用が義務
・フェンダーレスも可
・スポーツ性重視

両者ともに、縦二人乗りまで可能。だいたい最高速度は100-120kmが規定ライン。ロウパワー不可。

 端的に言うと、ATミニカーは車を小さくしたもので、MTミニカーはバイクを四輪にしたもの、というわけである。内田貴洋王国はこのミニカー産業が独自に発達して、あちこちでシグナルグランプリが開催されたり、草レースが行われたりする。但しこれらの主役はMTミニカーのほうである。

 最後に免許について触れよう。内田貴洋王国のライセンスは非常に取得が難しい。国民資格クラスCが最低条件。交通法から始まり、特定のサーキットの規定ラップタイム突破、エンジンの分解と組み立て、部品交換、各システムの理解など、車屋並みの知識量と技量が求められる。これには目的があり、日本のように自分の車のどこが悪いかもわからずに走り続けて、メンテナンスはディーラー頼みという状態を防ぐ。そして、イスラム及びフランスやカナダなどでありがちな、女の運転についてグダグダとクレームが付く事を防ぐためである。ライセンスにより一定の技量が保障されているのだから、当然事故等で女が差別を受けることもない。

 以上内田貴洋王国の交通事情。

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